第五話 いそぎんちゃく

14.洞窟


 ギィ、ギィ、

 轟轟

 艪のきしみと風の唸りを効果音に、灰色の空と海を背景にして、老漁師とジャックとジャパン、三人を乗せた小船は

『逃亡』と言う名前の絵と化していた。

 老漁師の腕は確かで、小船悪夢の島から遠く……離れていなかった。

 ぃぃぃぃ……

 悲鳴とも歓喜の声ともつかぬ声が彼らの耳に届く。 が、彼らは聞こえなかったかのように艪をこぎ。水をかい出す。 

その手の震えだけが、声が聞こえたこと示していた。


 「なんで……」ジャパンが声を絞り出す。 「何で『島』から離れねぇんだよぉ!」 

 小船は一度は『巨大いそぎんちゃく』すら逃げ出せたかに見えた。 しかし、声が届く程度の距離だけ離れるた後は、

先に進まなくなったのだ。

 「進んでるはずだ」 老漁師が、半ば自分に言い聞かせるように呟く。 「艪の手ごたえはからすっと進んでるはずだぁ」

 「じゃあなんで! あいつが追ってきてるのか!? 動けねぇんだろ、奴ら」 ジャックが怒鳴る。

 「わかんね。 潮の加減か、風のせいか……」

 時化た海で目印が無ければ、進んでいるのか流されているのか判るはずも無かった。


 オロオロオロ……

 「!!」

 背後から響いてきたのは、間違いなく『いそぎんちゃく』の鳴き声。 それも大きくて低い。

 「奴だ、あの島が俺達を呼んでる……」

 「漕げょ、じぃさん!!」 ジャパンが泣き声をあげた。

 「漕いでるだ、がたがた抜かすと放り出すどぉ! お前らぁ、重石でしかねぇんだから!」

 「もっともだな、少し減らすか」 平板な声でジャックが呟いた。

 「え?」 

 ジャパンがジャックの方を見たときには、もうジャパンは海の中だった。 ジャパンは唖然とした顔のまま海中に消え、

そして浮かんでこなかった。

 「おい! なんてことするだぁ!」 老漁師が愕然とする。

 「船が揺れたんだ」 ジャックが老漁師を見返す、目が据わっている。 「いこうぜ、これ以上船が揺れちゃ大変だ」

 「……」

 老漁師は恐ろしいものを見るような目でジャックを見た。 そして、海面を見渡しジャパンを探したが、彼の姿は見当たらない。

 「まっとうな死に方できねっど」 口の中で呟いて、艪を取り上げて再び漕ぎ始めた。


 オロオロオロ……

 「くそっ、軽くなったはずなのに……」

 一人減ったのに船足は変わっていない。 『巨大いそぎんちゃく』の目を見ると、どうなるか判らないので背後も確認

できない。 おまけに視界が白くかすんできた。

 「霧か? こんな時に」

 「馬鹿言うでねぇだ。 こげな風が強いのに霧だのガスだの……」

 二人は急に黙った、霧に匂いがある。

 「こいつは……ひょっとして」


 オイデェェェ…… 

 「あんちゃん。 なんか言うたか?」

 ジャックは首をぶんぶんと振る。

 オイデェェ…… コッチニオイデェェェ……

 ねっとりと纏わりつくような声が聞こえる。 振り向いてはいけない。 しかし、どうしても振り向かざるを得ない、そんな声

だった。 二人は錆付いた人形のような動きで振り向く。

 「……霧じゃねぇ」

 『巨大いそぎんちゃく』がこっちを見ていた、膝を立て、足を開いた姿勢で。 その湾の奥に開いた神秘の洞窟、『霧』は

そこから流れ出ていた。

 オイデェェ…… コココニオイデェェェ……

 ギィ…… 艪がきしみ、船が向きをかえる、『巨大いそぎんちゃく』の方に。

 「じぃさん!?」

 「て、手が勝手に……」

 ジャックは老漁師を止めようと立ち上がる。 しかし体が鉛のような重く、動くことが出来ない。

 「じいさん! 止めろ!」

 「止まんねぇだ!!」

 ギィ、ギィ、ギィ

 霧が渦を巻いて流れていく、神秘の洞窟に向けて、まるで船を引きずり込むかのように。 飛び込んで逃げようにも体が

言うことを利かない。

 「助けてくれぇ!」

 ジャックの叫びが空しく響いた。


 ブハッ!

 海の上に頭が一つ現れた。 ジャパンだ。

 「ジャックの畜生! ただじゃおかねぇぞ!」

 きょろきょろと辺りを見まわすが、小船が、それに『巨大いそぎんちゃく』も見えない。

 「おい、嘘だろう? どこいったんだよ」

 沈んでいる間に流されたらしい。 このままではいずれ疲れて溺れ死ぬ。

 「……」

 喚くのをやめ、ジャパンは体を横にして水に浮こうと試みる。 その頭に固いものがぶつかった。

 「あいたぁ! なんだってんだぁ」

 振り返ると、見覚えのあるサーフボードが一枚浮いている。 

 「これは……確か浜辺に残してきた。 そうか、島が崩れたとき海に流されたんだ」

 と言うことは、ここは『巨大いそぎんちゃく』からそうは離れていないはすだ。 ジャパンはサーフボードに這い上がって

その上に伏せた。

 「とりあえず助かった」

 ジャパンはあてもなくサーフボードで漂っていく。


 コッチ……コッチヨ……

 「……」

 老漁師とジャックを乗せた小船は、湾の中に入ってきた。 波は驚くほど静かで、彼らの眼前には、人の背丈の

3倍以上はある秘所が口を開けている。

 ハァ……ハァ……

 二人とも、呼吸が荒くなっていくのを感じていた。 近づくにつれ、それから目が離せなくなってきた。 中に入りたい

という欲望が沸き起こってくる。

 「なかは……なかはどうなってるんだ……」

 老漁師は黙って秘所を指差した。 真っ暗な洞窟の中に蠢くものが見える。 人か、魔物か。 何れにせよ恐ろしい

ものに違いない。

 「……」

 小船は滑るように進み、洞窟に吸い込まれていった。

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